竹内修一(Osamu Takeuchi, S.T.D.)
上智大学神学部教授 カトリック司祭(イエズス会)『インサイドアウト「内なる子ども」を癒やす』への推薦文。内なる子ども、生きることの意味、そして永遠のいのちへ——。ユング、フランクル、パウロを往還する神学的考察。
子どものころ、あなたが目の前のことに夢中になった経験を思い出してみてください。創造的で、憂うことなく、いまここを過ごしていた記憶が思い浮かぶのではないでしょうか。ユングは、大人が、自身のなかにもう一度その「子ども」を見いだすことを最も成熟した証として捉え、その元型を「神聖な幼子」「内なる子ども」と表現しました。
本書『インサイドアウト「内なる子ども」を癒やす 〜Drop+Kiss…+より〜』は、病と喪失に向き合った一人の女性の記録「Drop+Kiss…+」をもとに、その歩みを編者のナレーションとともに辿るノンフィクション文学です。読者に語りかけるように綴られた本書は、個人の記録を超えて、読む人がもう一度、自身の内面に「内なる子ども」を見いだす気付きとなるものです。老いや病、グリーフといったスピリチュアルペインの当事者やその家族・パートナー、そして人間の精神的成長に関心を持つすべての人を対象にしています。
内なる子ども
雛瀬ななさんの死後、編著者である敷島真也氏は、次のように記す。
「桜が咲くころに転機はやってきた。彼女の部屋を掃除しているとき、ふと行き場のない思いに疲れて椅子に座り、途方に暮れてぼんやりと部屋を眺め、彼女が残したものを見るともなしに見ていると、不意にその理解は訪れた。それまで思いついたことなどなかったのに、まるでずっと知っていたかのような静かな理解だった。驚きや感動を伴う気づきというよりは、全く自然なことのように理解した。それは、彼女にとって最も大事だったのは、『内なる子ども』であったということだった。彼女は幼いときそれを失い、求め続けた。そして、内なる子どもということを中心に全てが有機的につながり始めた。」
「内なる子ども」——それは、「神聖な子ども」とも呼ばれる。単純で素朴、そして無垢な存在である。それゆえまた、「内なる子ども」は、もろくて傷つきやすい。しかし、「内なる子ども」のささやきは、まさに「いのち」からの語り掛けである。それゆえ、このささやきは、祈りとなる。その祈りを生きるために必要なこと——それは、自分の心の奥深くに語り掛けるささやきに耳を傾けることである。それは、自らの良心に真摯に相対することでもある。「内なる子ども」はまた、何かに対して怒りを抱くこともある。それは他者から受けた傷、とりわけ虐待によってもたらされ、トラウマとなる。しかしその原因を、自らの中に見出そうとする時、いっそう苦しみは増し、自己は閉ざされて行く。
生きることの意味
「人間は何のために生きるのか」——換言すれば、「生きることの意味は何か」である。おそらく、たとえ漠然とではあっても、この問いを心に抱いたことのある人は、少なくないであろう。しかし、V・E・フランクルは、この問いを転回させる。つまり、私たちが、生きることから何かを期待するのではなく、生きることが、私たちから何かを期待している、と言うのである。
生と死
フランクルは、奇跡的に、アウシュヴィッツを生き延びた。彼によれば、死は、生きることの一部である。換言すれば、生きることの意味は、死もまた含む全体としての生きることの意味なのである。また、苦しみや死は、人生を無意味なものにするのではない。むしろ、それは、人生をより意味のあるものにする。苦しみや死——それは、神秘である。つまり、人間の理性だけで理解できるものではなく、事実として、私たちに与えられるものなのである。そのような事実について、パウロは、次のように語る。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリント10:13)
生きることの意味と愛
人間は、誰かをあるいは何かを愛して生きるとき、真に人間として生きることの意味を体験する。それゆえ、フランクルは、次のように語る。
「人生が出す具体的な問いに責任をもって応答するなら、人生を意味のあるものにできるのは活動によってだけではありません。行動する存在としてだけではなく、愛する存在としても、美しいものや、偉大なもの、善いものを愛しそれに身をささげることによって、人生のさまざまな要求を満たすことができるのです。」
愛されている人間はまた、たとえ何かの役に立たなくても、尊厳を備えたかけがえない存在として生きるのである。何かが存在する——それは愛による存在の肯定。一人の人間が生きている——それは愛によるいのちの肯定にほかならない。
「生命」から「いのち」へ
私たちは、この世にあっては、必ずいつか死を迎える。ただ、それがいつどのようにして訪れるかは分からない。人間は確かに、M・ハイデガーが語るように、「死に向かう存在」であろう。しかしそれは、「死」においてすべてが終わる、という意味ではない。
「いのち」の意義は、この世における「生命」に尽きるものではない。換言すれば、たとえ「生命」がその終焉を迎えたとしても、「いのち」は存在する。換言すれば、たとえ生命がその終焉を迎えても、それによって、いのちが崩壊するのでも消滅するのでもないのである。生命の終焉を越えたところ——そこにこそ、真のいのちの意義を見出すことができる。人間が生きる意味とは、まさに、この「いのち」において立ち現れる。
死からいのちへ
カトリック教会には、亡くなった方のために、次のような祈りがある。
「キリストのうちにわたしたちの復活の希望は輝き、死を悲しむ者も、とこしえのいのちの約束によって慰められます。信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています」(「葬儀ミサの叙唱」)
この世での死は、永遠のいのちへの一つの通過点なのである。かつて、マザー・テレサはこう語った——「もしも、死は神の家に帰ることだと正しく説明されれば、死を恐れることなどなくなるのです。」
永遠のいのちへ
2019年4月21日(日)、ななさんは、敷島氏とともに洗礼を受けた。復活の主日である。洗礼名は、マグダラの聖マリア。彼女は、生前、さまざまな苦しみに苛まれていた。しかしイエスとの出会いによって、新たないのちへと招かれた。十字架上でイエスが息を引き取られた時、弟子たちは、逃げ去った。しかし彼女は、そこにたたずんでいた。また、復活したイエスと最初に出会った人物——それは、彼女であった。
洗礼とは、死を通して新たないのちに与ることにほかならない。そのことについて、パウロは、次のように語る。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ロマ6:4)
「平和とは秩序の静けさである」——そう語ったのは、アウグスティヌス。イエスは、「平和の君」(イザヤ9:5)と語られる。それゆえ、彼の福音は、平和に始まり平和に終わると言っても過言ではない。復活の後、彼は、恐れの中に自らを閉ざしていた弟子たちにこう語る——「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19、21、26)。「平和」(シャローム)とは、本来、神が共におられる、ということを意味する。
ななさんは、この復活したイエスの平和の中に、確かに招かれ生きている。敷島氏を訪れた静かな理解——それは、この平和の中でささやく「内なる子ども」の祈りである。
竹内 修一(Takeuchi Osamu)
S.T.D.(神学博士)上智大学神学部教授 カトリック司祭(イエズス会)グリーフケア研究所所長
1958年生まれ。上智大学神学部卒業後、バークレー・イエズス会神学大学院にて神学博士号取得。専門は倫理神学。著書に『風のなごり』(教友社)、『ことばの風景』(教友社)、『いのちと性の物語——人格的存在としての人間の倫理』(春秋社、2023年)ほか多数。